こんにちは、佐々木真由美です。 神奈川県在住、現在54歳。80代の母を在宅で介護しながら暮らしている主婦です。 もともとは食品メーカーで事務職をしていましたが、父の死をきっかけに母の介護が本格化し、退職して今はフルタイムで家のことと介護に向き合っています。
このブログでは、介護の中で私が直面したさまざまな困りごとや、そこから見つけたちょっとした工夫や気づきを、誰かのヒントになればという思いで綴っています。
今回は、その中でも私にとって特に心に残っている出来事、「親がごはんを食べてくれない問題」について書きたいと思います。
母が「今日は食欲ない」「もういらない」と言うたびに、私はどこか心の中をかき乱されていました。 一生懸命作ったものを前に、箸が止まったままの姿を見ると、自分が否定されたような気持ちになってしまったこともあります。
でも今思えば、それは単に“ごはんを残された”ことだけではなく、「母の変化」をまざまざと見せつけられることへの、寂しさや戸惑いだったのかもしれません。
この記事では、そんな私の葛藤と、試行錯誤の末に見つけた「食べてもらうためのヒント」、そして何より「自分自身の気持ちの向き合い方」についてお話しできればと思います。
食べてくれない…それは料理の否定のように感じてしまう
介護を始めたばかりのころ、母はとても少食になっていて、用意した食事の半分も食べないことが多くありました。
「もうお腹いっぱい」「今日は食欲がない」
そう言われるたびに、私は自分の料理が悪いのかもしれない、とひどく落ち込みました。
毎日の食事は、母の健康を支えるためにと必死で考えて作っていました。 高齢者向けのレシピをネットで調べ、咀嚼や嚥下に配慮し、味付けも塩分控えめだけどおいしいと思えるようにと工夫を重ねて。 それでも食べてくれない姿を見るたびに、「自分の努力は無駄だったのか」と心が折れそうになったこともあります。
元気だったころの母は、食べることが大好きで、季節の食材や外食にもよく付き合ってくれました。 味には厳しく、私が作った料理に「これはちょっと薄いね」「煮すぎたかな」とハッキリ言うタイプだったので、料理の好みもよく分かっているつもりでした。 だからこそ、少しでも母に喜んで食べてもらえるよう、柔らかさや香り、彩りにまで気を配っていたのに、それでも箸が止まると、自分自身が否定されたような感覚になっていたのです。
けれど、時間が経つにつれて、ようやく気づくようになりました。 「食べない」ことの背景には、体の不調や気分の落ち込み、加齢による味覚や嗅覚の低下、薬の副作用など、本人にもどうにもできない要因がいくつもあるということ。
それらは、いくら私が頑張っても、料理の工夫だけでは乗り越えられない壁なのだと受け入れられるようになったとき、ようやく「責めるべき相手は自分じゃない」と気づくことができました。
介護では、“できない”という現実を本人だけでなく介護する側も受け止める必要があるのだと思います。 この経験を通じて、私は少しずつ「何かをしてあげること」よりも、「一緒にその気持ちを受け止めること」の大切さを知るようになりました。
私が試してみた“5つの工夫”
では、そんな状況にどう向き合い、どう工夫していったのか。ここからは、私が日々の中で実際に試してきた方法を、ひとつずつご紹介していきたいと思います。
当初は、正直“手応え”のようなものはほとんど感じられませんでした。あれこれ工夫しても、結果として食べてもらえない日が続くと、「もう何をしても無駄なのかも」と思ってしまったこともあります。
けれど、諦めずに少しずつ変化を加えていくうちに、「今日は前より食べてくれた」「おかわりしたいと言ってくれた」といった小さな変化が見えるようになってきました。
ここでお伝えするのは、医学的な知識や特別な道具を使った専門的なものではありません。 あくまでも、私のような在宅介護をしているごく普通の主婦が、自分の家の台所と食卓の中で、地道に積み重ねてきた“暮らしの工夫”です。
どれかひとつでも、読んでくださっている方の心に引っかかるヒントになれば、それだけでこの文章を書いた意味があると私は思っています。
1. 一口サイズにして盛り付ける
大きなお皿にドンと盛ると、それだけで「こんなに食べきれない」と感じてしまうことがあるようで、母の場合もまさにそうでした。
ある日、普段通りにおかずを1枚のプレートに盛り付けたところ、「これ、全部食べなきゃいけないの?」と不安そうに聞かれたのです。
それをきっかけに、私は盛り付けを見直しました。 料理を小鉢や豆皿などに分けて、食卓に“少しずつ並べる”というスタイルに変更。 結果、視覚的な負担が減ったのか、母は「これなら食べられそう」と言って手を伸ばしてくれることが増えました。
少量ずつの盛り付けは、「完食できた」という達成感にもつながるようで、気分も前向きになりやすいようです。
介護の食事は、“どれだけ栄養を摂らせられるか”以上に、“気持ちよく食卓に向かえるか”が鍵だと私は感じています。
2. 好きだったメニューを思い出す
昔から母が好きだった「かぼちゃの煮物」や「卵焼き」は、どんなに食欲がないときでも、手が伸びやすい“安心メニュー”のようでした。
特に、かぼちゃの煮物はほんのりとした甘さとホクホク感があり、噛む力が弱くなってきた母でも無理なく食べられます。 また、卵焼きは出汁をしっかりきかせて、口当たりがやわらかくなるように工夫しました。
「今日は食欲ない」と言っていた日でも、この2つだけは箸が動くことが何度もありました。 そこから、「好きなものにはきっと“思い出”や“味の記憶”が詰まっているのかもしれない」と気づいたのです。
それ以来、子どものころに母がよく作ってくれた家庭料理、家族で外食したときに「おいしいね」と笑い合った一皿など、母にとって“なじみのある味”を優先して出すようになりました。
高齢になると、新しい味よりも「食べ慣れた味」が心と体に優しく響くのだと、私は実感しています。 食事が“義務”ではなく“楽しみ”に少しでも近づくよう、懐かしさを食卓に添えることが、私なりのひとつの工夫です。
3. 温度と香りを大事にする
温かいお味噌汁の香りは、母の食欲を刺激してくれる数少ない“食卓のスイッチ”のひとつでした。
特に朝や寒い日には、湯気が立ちのぼる味噌汁の香りだけで、母の表情が少し和らぐのがわかります。香りには記憶や感情を引き出す力があるといいますが、母の場合もまさにそうだったのかもしれません。
そこで私は、味噌汁を出すときには器をしっかり温めておくことを習慣にしました。冷たい器に注ぐと、せっかくの味噌汁がすぐにぬるくなってしまいます。それでは、香りも湯気も半減してしまうのです。
一手間ですが、熱湯を器に注いであらかじめ温めておくことで、味噌汁の温かさも香りも保てるようになり、結果として母の食いつきが大きく変わりました。
高齢者にとって、“温かい”という感覚は味以上に安心を与えるものなのだと、この体験を通じて学びました。食事という行為にほんの少しの「ぬくもり」を添えるだけで、食卓がやさしい場所に変わるのだと思います。
4. 「無理に食べさせよう」としない
「少しでも食べて」「残さないで」といった言葉は、ついつい口から出てしまうものでした。 私としては、母の健康を思ってのことだったのですが、その“善意”が時に母にとってはプレッシャーになっていたようです。
特に、調子が悪そうな日や食欲が落ちている日には、その一言が母をさらに委縮させてしまっていたことに、ある日気づきました。
母の表情が曇り、箸を持ってもなかなか動かない。 「何か食べたいものある?」と聞いても、かぶりを振るばかり。 私の声かけが“食べさせなきゃ”という圧力になっていたのだと、後になってようやく理解できたのです。
それからは、声かけのトーンや言葉の選び方にも気を配るようになりました。 「無理に全部食べなくていいよ」「食べられそうな分だけ、お皿にとろうか?」 そんなふうに、相手の気持ちを尊重する言葉に変えていったところ、母の表情が少しずつ柔らかくなっていきました。
介護の中では、“思いやり”が“押し付け”に変わってしまうことがあります。 私たちにできるのは、必要以上に追い詰めず、本人のペースに寄り添っていくこと。 それが結果的に、食事そのものを前向きに捉える第一歩になるのだと感じています。
5. 自分も一緒に食卓につく
一人で食べるのは寂しいものです。高齢者であればなおさら、その寂しさは食欲にも影響するのではないかと、母を見ていて感じるようになりました。
ある日、母が「なんか今日、味がしない」とつぶやいたのを聞いて、私はふと気づきました。味そのものがどうというよりも、「誰かと一緒に食べていない」という状況が、食事を味気ないものにしていたのではないかと。
それからは、できる限り私も母と同じものを用意し、一緒にテーブルに座るようにしました。 「おいしいね」「今日の味噌汁、ちょっと濃いかな?」といった何気ない会話を交わしながら、一緒に食事をする。 たったそれだけのことですが、母の箸が進む日が増え、笑顔も見られるようになってきました。
時には母の前にだけ用意して、自分は洗濯物をたたんだり片付けをしたりしていた日々が、今となってはもったいなかったとさえ思います。
「誰かと一緒に食べる」ことは、食欲の刺激だけでなく、心の栄養にもなっているのだと実感しました。食事はただの栄養補給ではなく、大切なコミュニケーションの時間でもあるのです。
気づいたのは「食べさせる」のではなく「食べたくなる環境をつくる」こと
私はどこかで、「母に食べさせなきゃ」と肩に力が入っていたのだと思います。 毎回の食事を「全部食べてもらうこと」にこだわり過ぎていたあの頃は、もはや栄養補給というよりも、“達成すべき課題”になっていたような気がします。
でも、ある日ふと立ち止まって思いました。 母は「食べること」自体が苦痛になってしまっているのではないか。 そして、その原因のひとつは、私が与えてしまっていた“無言の圧力”だったのではないかと。
そこから、少しずつ考え方を切り替えるようになりました。 「毎日完食しなくてもいい」「昨日より一口でも多ければOK」「今日はスープだけでも飲んでくれたら合格」——そんなふうに目線を変えてみたんです。
すると不思議なもので、私自身の気持ちもすっと楽になりました。 母と向き合うときの表情や声かけが変わったせいか、母の食事に対する反応にも、少しずつ前向きな変化が現れてきました。
介護における“食事”というのは、栄養だけでなく、その家に流れる空気や家族の関係性、言葉にできない気持ちまでも映し出す鏡のような存在だと私は思います。
「なんで食べてくれないの?」という問いではなく、「どうすれば自然に、気持ちよく食卓に向かえるかな?」という視点に切り替えられたことで、私たちの毎日は少しずつ、優しくなりました。
もしこの記事を読んでくださっている方が、かつての私のように「食べさせること」に縛られて疲れているのだとしたら、ほんの少しだけ考え方の肩の力を抜いてみてください。
完璧じゃなくて大丈夫です。 食卓に座ってくれただけでも、それは十分価値のあること。
この経験が、今“食べてくれない問題”で悩んでいる誰かの心を、少しでも軽くできたなら、それだけで私は救われる思いです。