在宅介護

【在宅介護の日常】3食作るだけで1日が終わる。介護生活で失った“自分の時間”

こんにちは。佐々木真由美と申します。 現在54歳、神奈川県で80代の母と二人暮らしをしながら、在宅での介護生活を続けています。

もともとは食品メーカーの事務職をしていたのですが、父の他界を機に母の介護が本格化し、仕事を辞めて今は専業で家のことを見ています。 在宅介護というのは、想像以上に生活のすべてを飲み込んでくるものですね。 特に「食事」という日常的な行為が、思っていた以上に自分の時間を奪っていくことに気づいたとき、私は少しだけ息苦しくなりました。

今日は、「食事の準備だけで1日が終わってしまう」という、私が介護の中で最も強く感じているテーマについて、これまでの経験を交えて書いてみたいと思います。

朝の始まりは“キッチン”から

介護を始めてから、私の1日はほとんどキッチンから始まります。文字通り、目が覚めて最初に向かう場所が台所であり、朝の静けさの中で冷蔵庫を開けることが、今や私の日常となっています。

母は朝が早く、6時半頃には「ごはんはまだ?」と声がかかるため、私も自然とその時間に合わせて早起きするようになりました。 以前は自分のペースで朝の支度をしていた私ですが、今ではそのリズムも母の生活に合わせて変化しました。

ごはんを炊いて、具だくさんのお味噌汁をつくり、冷蔵庫にある食材を見ながら母が食べやすいように細かく刻んだり、柔らかく煮込んだりする。口の中でうまく噛めるか、のどに詰まらせないかといったことを常に意識しながら調理するのは、なかなか神経を使います。

一緒に食卓につき、食事を見守りながら自分も食べる。そして薬を出し、忘れずに飲んだかを確認。食器を洗って片付けが終わる頃には、もう9時近くになっていることも珍しくありません。

ようやく一息つけるかと思いきや、「さあ、次は昼ごはんね」と頭の中ではすでに次の段取りを考え始めていて、気持ちが休まる暇がありません。

私にとって台所は、もはや「生活の起点」であると同時に「介護の現場」そのものです。食事という行為が、これほどまでに重く日常にのしかかるとは、かつて想像もしませんでした。

真由美

このパートを書きながら、ふと感じました。 介護というのは、身体だけでなく“時間”や“空間”も母と共有するものなのだと。朝ごはんひとつをとっても、母の食べる速度、好み、体調、それに私の気遣いが全て絡み合っている。

きっとこれを読んでくださっている方の中にも、同じように「自分の朝は、自分のものではなくなった」と感じている方がいらっしゃるのではないでしょうか。

それでも、少しでも気持ちにゆとりを持てるように、私は今日も台所に立っています。

昼も夜も“ごはんのことで頭がいっぱい”

母は歯が弱く、硬いものは噛めません。お肉も繊維が強いものは避けなければならず、根菜類も煮込みが足りないと残されてしまいます。

それに加えて、母は少食気味で、少しでも味付けが濃すぎたり、逆に薄すぎたりすると「今日はあまり食べたくないな」と口にすることもあります。その日の気温や体調によっても好みが変わるので、「これを作れば間違いない」というものがなかなか見つかりません。

「お昼はうどんにしたけど、今日は食が進まなかったな」 「夜はおかゆにしようか、それとも卵焼き? でも昨日卵焼きは残されたし…」

そんなことを毎日考えながら、冷蔵庫とにらめっこする日々。気づけば朝昼晩、食事のことばかり考えていて、自分が何をしたかったのか、何に時間を使いたかったのかも忘れてしまうほどです。

“今日も私はほとんど台所の人だったな”

ふとそう思いながら、夜のシンクにたまった食器を洗っていると、今日1日の自分の時間がどこにもなかったことに、少しだけ切なくなります。

真由美

介護というのは、「やってあげたい」という気持ちと、「やらなければいけない」という義務感のはざまで揺れ続けるものなのだと思います。

毎日の献立に悩みながらも、「明日は少しでも笑顔で食べてもらえるように」と工夫を重ねる私自身の姿に、今では少しだけ誇りを感じるようになりました。

ごはん作りに追われる毎日に、ふと湧いた違和感

ある日ふと、「私は母のためにごはんを作る機械みたいだな」と思ってしまった瞬間がありました。

毎日の家事の中でも、食事の準備は時間も手間もかかり、さらにその出来によって母の体調や気分にも影響するため、特に神経を使います。やるべきことは山ほどあるのに、キッチンから離れられない。次は何を作るか、味はどうか、柔らかさは足りるか…そんなことをずっと考えているうちに、気がつけば「自分のこと」がどこかに行ってしまっていたのです。

もちろん、母のことは大切です。できる限りのことをしてあげたいという気持ちは、嘘ではありません。でも、それと「自分の時間がない」という事実は、まったく別の問題です。献身的であることと、無理を重ねて自分を消してしまうことは違うのです。

「本を読もう」と思っても、ページをめくる手を止めて「お茶が飲みたい」という声に応えなければなりません。「少し横になろう」と思っても、「トイレに行きたい」と呼ばれてベッドを離れることになる。そういった“中断”が日常にあまりにも多くて、自分の時間を生きているという実感がどんどん薄れていくのを感じました。

テレビをつけても、目の前の映像が頭に入ってこない。気づけば画面の中でドラマが終わっていて、「私は何を見ていたんだろう」とぼんやりすることもありました。

そんな日々が続いて、私の中には「この生活はいつ終わるんだろう」「ずっとこのままなのかな……」という焦りと、ほんの少しの絶望が芽生えてきました。

真由美

でも今振り返ってみると、その違和感に気づけたこと自体が、ある意味で“自分を守るための第一歩”だったのだと思います。

読者の皆さんの中にも、同じように「誰かのために尽くしているうちに、自分の姿が見えなくなってしまった」と感じている方がいるかもしれません。

そういう方にこそ、声を大にして伝えたいのです。

「それは、あなたがサボっているわけでも、弱いわけでもありません。とても自然な感情です」

自分の時間を取り戻すために、私が見直した3つのこと

そんな中で、私は少しずつ、「全部自分でやらなくていい」という考え方にシフトしていきました。

初めは罪悪感がありました。「自分がやらなきゃ誰がやるの?」という思い込みに縛られていたからです。でも、それでは私自身がすり減っていくばかり。だから少しずつ、無理のない“仕組み”を生活の中に取り入れていくことにしたのです。

無理のない仕組みを生活に
  • 昼食は冷凍ストックを使う日を作る:前の晩の残り物や市販の冷凍食品を組み合わせれば、10分で用意できる日もあります。
  • 汁物は前日の残りでOKとする:同じ味噌汁でも、具を少し足すだけで母も違和感なく食べてくれました。
  • “手抜き”ではなく、“仕組み化”だと思うようにする:一つ一つの工程を見直すと、「ちゃんとやらなきゃ」が減っていきました。

そしてなにより、自分のために15分だけ“誰にも邪魔されない時間”を確保するようにしました。 朝食と昼食の合間、母がテレビを観ているすきに、あたたかいコーヒーを淹れて、深呼吸して座る。その15分間だけは、スマホも触らず、洗濯物も畳まず、「私は今、休んでいい」と自分に許可を出すのです。

たった15分。されど15分。 この時間があるかないかで、午後からの私の心の余裕がまるで違ってきました。ちょっとした声かけにも優しくなれるし、何より「自分を大切にしている」という実感があるだけで、1日の満足度が変わるのです。

真由美

もし、あなたが今「なんとなく毎日が苦しい」と感じているなら、まずは“自分を少し休ませる仕組み”を生活に取り入れてみてください。 それは、家事を手抜きすることでも、誰かに頼ることでもいいと思います。

自分をいたわることは、誰かのために頑張る力を取り戻す第一歩です。

「全部やろうとしない介護」を選んでいい

介護はたしかに、大変です。 体力も気力も削られますし、毎日のように小さな判断と調整が求められます。 やったことの評価が「当たり前」になりやすく、感謝の言葉がない日だってあります。 それでも続けなければいけない——この感覚が、思っていた以上に重くのしかかってくるのです。

だからこそ、私は今、「全部を完璧にやらなきゃ」という思い込みを、少しずつ手放していくことが大事だと強く感じています。

家族だからこそ、頼れる人がいないこともあります。夫は仕事、子どもたちは独立、近くに兄弟もいない。そんな中で「私がやらなきゃ」と気を張ってしまう日もありました。

でも、家族だからこそ、やりすぎてしまい、自分を後回しにして、気づけば心が空っぽになっていたこともあります。 「自分のことなんて、今は後回しでいい」——そう思っていたら、いつの間にか“自分”という存在が消えかかっていました。

もし今、かつての私のように「毎日、気づけば食事だけで1日が終わっている」と感じている方がいたら、 私はこう伝えたいです。

「ひとつくらい手を抜いても、誰もあなたを責めたりしません。むしろ、心を守るための大事な選択なんです」

誰かに頼ること、自分の時間を作ること、家事を減らすこと、どれもズルじゃありません。 それは、あなたがこれからも元気で介護を続けるために必要な“生き抜く知恵”だと思います。

真由美

この記事が、どこかの誰かにとっての“心の休憩所”になれたなら、これ以上うれしいことはありません。 最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。