メンタルケア

介護していて一番つらかったのは、「自分が怒ってしまうこと」だった

こんにちは、佐々木真由美です。 神奈川県で80代の母を在宅で介護しており、気づけばもう5年近くが経ちます。

それまで私は、介護というものを「大変だけど愛があれば乗り越えられる」とどこか楽観的にとらえていた部分がありました。 けれど、実際に母との生活が始まってみると、そこには想像を超える感情の揺れ、疲労、そして自分の弱さと直面する日々が待っていました。

この記事では、そんな私の介護生活のなかでも特につらかったこと——「怒ってしまう自分」とどう向き合ったかを、正直に書いてみようと思います。

怒りたくないのに、怒ってしまう私がいた

介護生活のなかで、身体の疲れや時間のなさよりも、私がいちばんつらいと感じたのは—— 「自分が母に対して怒ってしまうこと」でした。

母は認知症ではありませんが、年齢とともに体が思うように動かなくなり、判断力や反応もゆるやかに衰えてきました。 お風呂を嫌がったり、トイレを我慢してしまったり、食事中にこぼしても無反応だったりと、小さな“困ったこと”が毎日のように起きます。

そのたびに私は、「どうしてこんなに何度言ってもできないの」「また同じこと?」と心の中でため息をつきながら、次第に声のトーンがきつくなっていきました。 あるときは、「もう知らない!」と口走り、自分でも驚くほど強い口調で言ってしまい、リビングから離れた部屋に閉じこもってしまったこともあります。

そんなふうに感情をぶつけたあと、襲ってくるのは決まって強い自己嫌悪です。 「怒ってしまった私は、介護する資格なんてないんじゃないか」「母は悪くないのに、私は最低だ」と、自分を責めて責めて、布団の中で涙をこらえることもありました。

当たり前のように見える日常のなかで、“怒り”という感情が自分を突き動かしてしまうこと——。 それは、ただ疲れているからだけではなく、自分自身の理想と現実のギャップに押しつぶされそうになる瞬間でもあるのだと、ようやく気づき始めました。

怒った自分を責めて、さらに苦しくなる

「どうして怒ってしまったんだろう」 「母は何も悪くないのに」 「私がもっと優しくなれたら」

怒った自分を責めて、泣いた夜は一度や二度ではありません。 そのたびに、「なんで私はこんなに余裕がないんだろう」と、自分の小ささを突きつけられるような気がして、ますます自己嫌悪に陥ってしまうのです。

そして、ふとした瞬間、そんな自分が心底いやになり、「誰か代わってくれないかな」「全部投げ出したい」とまで思ったこともありました。

でも、あるときネットで目にしたある一文に、私は深く救われました。

『怒るのは、それだけ相手のことを真剣に考えているから』

この言葉を読んだとき、胸の奥にじわっと温かいものが広がりました。 私は母のことをどうでもいいとは思っていない。 むしろ、大切に思っているからこそ、「もっとこうあってほしい」「ちゃんとしていてほしい」という期待や願いが膨らみ、すれ違いが怒りという形になって現れてしまったのだと、初めて気づくことができたのです。

真由美

もちろん、怒ることがいいことだとは思いません。 でも、「怒ったからダメな人間」「私は冷たい娘だ」と自分を全否定する必要はない。 少なくとも私は、自分なりに向き合おうとしていた——その事実だけは、否定しないようにしようと思えました。

感情と向き合うために、私がしていること

それからは、怒ってしまったときも、「ああ、私、今かなりいっぱいいっぱいだったな」と少し客観的に見られるようになりました。 以前は怒った自分をそのまま否定していたけれど、今は「私なりによくやっていたよね」と少しずつ自分を労う視点を持つようにしています。

感情が爆発しそうになったときは、深呼吸を3回してその場から離れたり、台所の蛇口の音を聞きながら頭を空っぽにする時間を意識的に作ったりするようになりました。 また、「怒るかもしれないな」と思った時点で、一度お茶を淹れて、まず自分の気持ちに寄り添ってみる。そんな“小さな介入”が、感情の暴走を防ぐ助けになっている気がします。

もちろん、それでも怒ってしまうことはあります。 でも、そんな自分を「人として当然の反応」と受け入れることで、次の一歩が少し軽くなる。 介護をしていれば、感情が揺れることは日常です。 大切なのは、完璧であろうとすることではなく、「それでも今日までやってこれた自分」に気づいてあげることなのかもしれません。

この記事が、同じように「怒ってしまって苦しい」と感じたことのある方にとって、ほんの少しでも気持ちがゆるむきっかけになれば幸いです。