こんにちは、佐々木真由美です。 神奈川県で、80代の母とふたり暮らしをしながら在宅介護を続けています。
介護生活を始めたばかりの頃、私はどこかで「ありがとう」と言われることで自分の頑張りが報われるのではないか、と期待していました。 朝から晩まで、トイレの世話や食事の準備、薬の管理、通院の付き添い……。 ひとつひとつは小さなことでも、それが毎日、何ヶ月も続くと「せめて一言でも何かあれば」と思ってしまうのは自然なことだったと思います。
でも現実には、「ありがとう」と言われることはあまりありませんでした。 むしろ、無言で当たり前のように受け取られたり、気遣いが足りないと注意されたりすることすらあったのです。
「なんで私ばっかり、こんなにやってるのに……」 心の奥でそんな気持ちがくすぶるたびに、私は自己嫌悪と小さな期待のあいだで揺れ動きました。
この記事では、感謝の言葉がもらえない状況に悩んでいた私自身の体験をふまえて、「なぜ辛かったのか」「どう乗り越えたのか」「それでも折れそうな夜にどうしているか」などを、できるだけ率直にお伝えしたいと思います。
求めていたのは、言葉よりも“認められたかった気持ち”
最初の頃、私は「ありがとう」と言われたい気持ちがどうしようもなく強くありました。 口に出さないまでも、どこかで「報われたい」「気づいてほしい」という思いが心の奥にあったのです。
でもある日ふと、湯呑を片づけながらふと思い至ったことがありました。 「私が本当に求めていたのは、“感謝”ではなく、“認められたい”という気持ちだったのではないか」と。
誰かの役に立っている、必要とされている、自分の努力がちゃんと届いている——。 それを確認したくて、私は“ありがとう”という言葉に、その思いを託していたのだと思います。
でも、介護を受ける側である母にとっては、日々の生活そのものがすでに大仕事。 朝起きて、着替えて、ごはんを食べて、トイレに行って、薬を飲む。 そんな一つひとつに集中するだけで精一杯な日もあるのです。
ましてや、言葉を選んで誰かに気を配る余裕なんて、到底残っていないこともある。 そう思えるようになってから、私は少しずつ肩の力を抜くことができました。
「言葉がない=気持ちがない」ではない。 そう理解し始めたとき、私の中にあった“ありがとう”への執着も、少しずつ静かになっていったように思います。
変わったのは、私の「受け取り方」
ある日、母が「味が薄い」と言って、せっかく用意した味噌汁を残しました。 私は内心ショックを受け、思わず「だったら自分で作ってみてよ」と言い返しそうになったのを、ぐっとこらえました。
そのとき、ふと「もしかしたらこれは、母なりのSOSかもしれない」と感じたのです。
母が投げる一言に、ただの不満や否定ではなく、「体調がすぐれなくて味が感じづらい」「気持ちが沈んでいて、何気ない言葉がきつくなってしまう」といった背景があるのかもしれない。 そう想像した瞬間、私の中でそれまで抱えていた怒りや悲しみの輪郭がふっと緩みました。
それから私は、母の言葉をそのまま受け取るのではなく、その裏にある「気持ち」や「状況」を汲み取るよう努めています。 たとえば「しょっぱい」と言われたとき、それは「もっと優しくしてほしい」のサインかもしれない。 「今日は食べたくない」は、「気持ちが不安定だから寄り添ってほしい」の裏返しかもしれない。
以前ならただ傷ついていた言葉も、今では少し違う角度から受け止められるようになりました。 文句のように聞こえるそのひと言の中にも、「あなたがやってくれていることは分かってるよ」「でも、今日はちょっと余裕がないんだ」という母なりの想いが込められている気がしてくるのです。
感謝されないことで、見えてきた“介護の本質”
介護は、報酬のある仕事とは違って、成果も評価も「目に見えにくい」ものです。 明確なゴールがあるわけでもなく、「誰かに喜ばれるかどうか」さえも日によって違う。
だからこそ、「ねぎらい」や「ありがとう」がもらえないと、自分が存在ごと透明になってしまったような感覚に襲われることがあります。 やってもやっても反応が返ってこない。 “役立っている実感”が得られないと、「私は今ここで何をしているのだろう」と虚しさを感じる瞬間が確かにありました。
でも本当は、私は誰かに「ありがとう」と言われるためだけに、介護をしているわけではありませんでした。 「母の力になりたい」「自分にできることをしたい」——そう思って始めたはずなのに、 いつの間にか、“他人の評価”でしか自分を見られなくなっていたことに気づいたのです。
感謝されないことは、確かに苦しかったです。 けれどその経験を通して、「私はなぜこれをやっているのか?」「誰のためにしているのか?」と、あらためて自分に問い直す機会を得ることができました。
その答えが“見返りではなく、想いからくる行動”だと気づけたとき、 私はほんの少しだけ、自分のことを誇らしく思えるようになったのです。
それでも、ありがとうがほしい夜もある
もちろん、今でもふとした瞬間に、「たった一言でいいのにな」と胸が詰まることがあります。 たとえば、体がきつくて家事がうまく回らなかった日、母に強めの口調で返されてしまった日、 誰からも声をかけられず、まるで自分が透明人間のように感じる夜。
「誰か一人でいい、今日の私を見ていてほしかった」——そんな思いが込み上げてきて、 どうしようもなく涙が出そうになる日もあります。
そんなとき私は、自分自身にそっと語りかけるようになりました。 「今日もやったね」「本当によくやってるよ」「誰も見てなくても、私は知ってるよ」と。
誰かから“ありがとう”と言ってもらえなかったとしても、 一番身近な存在である“自分自身”が、今日の自分をねぎらってあげること。 それだけで、不思議と胸の中にじんわりと温かいものが広がって、 「明日も、もう一日だけがんばってみよう」と思えるのです。
「ありがとう」がなくても、あなたの価値は変わらない
介護の現場では、感謝されることが少なくても、そこに込められた思いは決して小さくありません。 むしろ、誰にも見えないところで積み重ねられる思いやりや気遣いこそが、介護の本質なのだと私は思います。
「ありがとう」と言われることがなくても、それがあなたの頑張りを否定するわけではないし、ましてや価値を下げるものでもありません。
私は、この経験を通して学びました。 “認められること”がなくても、“認めてあげられる自分”になれたとき、人はもっと自由になれるのだと。
もし今、同じような状況で気持ちが沈んでいる方がいたら、自分の心に優しく語りかけてください。 「今日もがんばったね」「誰も言ってくれないけど、私は知ってるよ」と。
その言葉が、あなたをまた明日へと運んでくれるはずです。