メンタルケア

ごはん冷たい」「味が濃い」…親との“食の感覚差”にぶつかったとき

こんにちは、佐々木真由美です。 神奈川県で80代の母と二人暮らしをしながら、在宅介護をしています。

今回は、介護中に避けては通れない“食事の感覚差”について、私自身の実体験をもとにお話しします。

毎日、母のためにごはんを用意することは、私にとって“日課”というよりも“生活の軸”のようなものでした。 買い物をして、食材を切って、栄養バランスを考えながら作る。 「温かいうちに食べてもらおう」と思って声をかけ、急ぎ足で食卓に運ぶ。

でもある日、そんな私の努力が、思いがけない一言で崩れてしまったのです。

「これ、ちょっと冷たいね」 「もう少し薄味のほうがいいかも」 「前の方が美味しかった気がする」

母にとっては何気ない“ひと言”でも、私にとっては心にぐさりと刺さる言葉でした。 「がんばって作ってるのに…」「毎日欠かさずやっているのに…」 そういった感情が波のように押し寄せてきて、その日はしばらく台所から動けませんでした。

介護の中には、こうした“評価されない努力”がたくさんあります。 だからこそ、ほんのひと言が心に残りやすいのだと思います。 でも、そこにあるのは「気遣い不足」ではなく、単なる“感覚のズレ”なのだと、少しずつ受け止められるようになってきました。

この記事では、そんな私と母との“味覚のすれ違い”と、その中で見つけた折り合いのつけ方を綴っていきます。 同じようにモヤモヤを抱えている方の心が、少しでも軽くなれば嬉しいです。

「おいしい」は人それぞれ、でも心はゆれる

私は料理が特別得意なわけではありません。 でも、母の健康を守りたいという思いから、栄養のバランスや消化の良さ、そして食事のタイミングや温度まで、できる限り気を配って毎食を用意しています。

それでも、日々の介護のなかでぶつかるのが、“味覚の違い”でした。 人の味覚はとても主観的で、特に加齢によって感覚も変化していきます。 母は昔ながらの関東風のしっかりとした味つけを好み、私は減塩や油控えめのシンプルな味付けを基本にしているので、食卓での「正解」がいつもすれ違ってしまうのです。

「ちょっと濃いかも」「ぬるいわね」—— そんな何気ない言葉に、心がチクッと痛む日もあります。 「こっちは仕事や家事の合間に一生懸命作ってるのに」「だったら自分で作ってよ…」と、言葉には出せない思いが喉元までこみ上げてきて、また押し込める。

言葉にできないもどかしさと、努力が報われないような気持ち。 そんな気持ちを抱えながら台所に立つ毎日は、目には見えないけれど、心の疲れがじわじわと蓄積していくものでした。

真由美

介護というのは、こうした“感覚の小さなズレ”が、思いのほか心に重くのしかかるのだと実感しています。 けれど同時に、それは「ちゃんと向き合おうとしているからこそ」生まれる感情でもあるのだと、今では思えるようになりました。

私がやってみた3つの工夫

味の好みが合わないというのは、誰にとっても日常的に起こり得るすれ違いです。 でも、それが「毎日・毎食」のレベルで積み重なると、予想以上にストレスになります。

「また文句言われたらどうしよう」「一口食べて箸を置かれたらどうしよう」 そんな不安を抱えながら食事を作るのは、想像以上に神経をすり減らすものでした。

私は、あるときふと思いました。 「これって、私が“正しい味”を出そうとしすぎているのかも」と。

誰かの“感想”を自分への“評価”と受け取ってしまうから苦しくなる。 それなら、自分と相手はそもそも“別の舌”を持っていると割り切るところから始めよう。

そう思うようになってから、少しずつ気持ちに余裕が出てきたのです。

1. 「味は好み」と割り切る

「味覚は好み」「正解はない」——そう自分に言い聞かせるようになったのは、感情のぶつかり合いに疲れたある日でした。

それまでは、母の「濃い」や「冷たい」といった言葉に過剰に反応しては、「また否定された」「一生懸命やってるのに」と落ち込んでいました。

でも考えてみれば、母が言っているのは“感想”であって、“批判”ではないのです。 私の「ちょうどいい」と、母の「ちょうどいい」はまったく別物。 それに気づいてからは、感想を聞いたときにも、「あ、そうだったんだね」と一度受け止めて終わることができるようになりました。

「これが正しい味」という基準を手放したことで、私自身が料理に向かうときの気持ちもずいぶん軽くなりました。

真由美

介護の食卓は、“満点の味”を出す場所ではなく、“心地よく過ごす時間”を共有する場。 そう思えるようになってからは、味のすれ違いすらも、少しだけ笑えるようになりました。

2. 作る側が“味見役”から離れてみる

自分で味を決めると「自分の味=正解」になってしまいがちで、どうしても感想が“評価”に聞こえてしまいます。 そんなふうに気持ちが振り回されることが増えてから、私はある意味“自分が味見をしない食卓”というのを取り入れてみようと思いました。

最近では、市販の高齢者向け惣菜や、管理栄養士が監修した冷凍食品、さらには介護食として開発されたミールキットなども試すようになりました。 「自分の味じゃないからこそ、感想に引っ張られない」——それは、思っていた以上に気が楽になる方法だったのです。

自分が“作った責任”から少し離れて、第三者が作った味を一緒に食べる。 すると、母からの「これはちょっとしょっぱいね」「こっちはおいしいわね」といった感想も、「へえ、そうなんだ」と自然に受け止められるようになり、どこか心にクッションができたような気がしました。

真由美

すべて手作りである必要はない。 “自分が評価されない食事”を織り交ぜることも、介護を長く続けるうえでとても大切な選択肢だと思います。

3. 本音を言える関係をつくる

「がんばって作ってるのに、それを言われるとちょっとへこむなあ」

ある日、どうしても気持ちのやり場がなくなって、思い切って母にそう打ち明けたことがあります。 最初は少し緊張もありました。 でも母は、「あら、ごめんね。でもあなたも言ってね」と、ちょっと笑いながら答えてくれました。

その言葉に、私は思いのほか救われたのを覚えています。 母もまた、私に遠慮していたのかもしれない。 自分の味覚に正直に言ったつもりでも、それが“評価”になってしまっていたことに気づいてくれたのかもしれません。

介護中の親子関係って、どこかで“良い子でいよう”“我慢しよう”という“演技”になってしまうことも多いものです。 でも、こうした小さな本音のやりとりができるようになると、空気がふっとやわらいでいく瞬間があります。

真由美

完璧な理解や一致はなくても、「言ってもいい」「受け止めてもらえる」という安心感こそが、長い介護生活の中で何より大切なのではないか——そんなことを感じました。

食事は、生活の“温度”そのもの

「食事の温度」とは、ただ物理的な“ぬるい”“冷たい”といった話だけではありません。 そこには、作る人の気持ちや、食卓を囲む空気、そしてその場に流れる“生活のリズム”や“人間関係の距離”までもが、じわりと映し出されています。

たとえ味や温度に文句を言われても、それでもその食事の場に母がいてくれること——それ自体が、日常のありがたさであり、親子の絆が今も続いている証なのだと思うようになりました。

おいしい・おいしくない、正しい・間違っているといった基準を超えて、 「相手の感覚を受け止める余白を持てるかどうか」——この柔軟さこそが、介護における“心のゆとり”の正体なのかもしれません。

もし今、同じように“味のすれ違い”に悩んでいる方がいたら、 そのすれ違いは「愛情の通訳」がちょっとだけすれ違っているだけ。 翻訳の言葉を少し変えるだけで、お互いの気持ちがすっと通じることもあるのです。

今日もきっと「ちょっと味が違う」と言われるかもしれない。 でも、食卓に座ってくれること、その一皿を受け取ってくれること—— それがどれほど貴重なことか、私は介護を通して何度も噛みしめてきました。

その“当たり前”に見える時間こそ、私たちにとって一番の贈り物なのだと、心から思います。