こんにちは、佐々木真由美です。 神奈川県で80代の母を在宅で介護している、54歳の主婦です。
今回は「介護中に感じた孤独」について、私自身の体験をもとにお話ししたいと思います。
介護は、誰かのそばにずっと居続ける営みです。 それなのに、なぜか「孤独」を感じる瞬間がある——そんな矛盾したような感情に、私は長い間戸惑っていました。
母と私は二人暮らし。 日中も夜も同じ空間にいて、食事も会話も共有しているはずなのに、ふとした瞬間に「私、ずっと一人でがんばってるな」と感じてしまうことがあったのです。
たとえば、母がテレビを観て笑っている横で、私はスマホを握りしめて、誰にも見せないSNSのタイムラインをぼんやり眺めている。 笑い声が響く部屋の中で、心の中だけがぽつんと取り残されたような感覚。
会話はあっても、心の内を分かち合う相手がいない。 笑顔があっても、自分の気持ちに寄り添ってくれる人がいない。 そんな「見えない孤独」が、日々の積み重ねのなかでじわじわと心に染み込んできたのです。
この記事は、同じように「そばに人がいるのに、なぜか孤独」と感じたことのある方へ向けて書いています。 その気持ちは、あなたが弱いからではなく、それだけ“誰かに心を尽くしている”証なのだと、私は信じています。
なぜ「ひとり」と感じてしまったのか
介護が始まったばかりの頃は、正直なところ、孤独を感じる余裕もないほど毎日が嵐のように過ぎていきました。 やるべきことが山のようにあって、時間も気持ちも常に目の前のことでいっぱいで、「私がどう感じているか」なんて後回しでした。
朝起きたらすぐに母の様子を確認し、ごはんの準備、着替え、薬の管理、洗濯、掃除。 気づけばもう夕方。座る間もなく一日が終わっていく日々のなかで、自分の感情に目を向ける余裕すらなかったのです。
けれど、生活が少し落ち着いてきて、ルーティンがある程度形になると、ふと心に“空白”のようなものが現れました。
母のごはんを用意し、着替えを手伝い、薬を飲ませる。 必要なことは確実にこなしているはずなのに、どこか心が満たされない——そんな違和感を抱くようになったのです。
気づいたのは、「誰かと気持ちを共有する時間」がまったくないということでした。
たとえば、母がテレビのバラエティ番組を観て声を出して笑っているその隣で、私はスマホを握りしめながらSNSをただ無言でスクロールしている。 “誰かの言葉”を求めて画面を覗いているのに、そこに私の今の気持ちを受け止めてくれる人はいない。
あのときの私は、まるで静かな部屋の中で一人きり、音のない世界に閉じ込められているような、そんな感覚でした。
介護の“役割”を果たしているはずなのに、どこかで「誰にも必要とされていない」ような孤独を感じていたのかもしれません。 その感情は私にとって、とても静かで、でも確かな痛みでした。
「優しさ」に飲み込まれて、自分が消えていくような感覚
介護は、相手のために尽くす行為です。 相手の健康を支え、心を満たし、できる限り穏やかに日々を過ごしてもらえるよう気を配る——そんな使命感を持って、私は毎日母の世話をしています。
けれどその裏で、知らず知らずのうちに「自分」という存在が後回しになっていくことに、ある日ふと気づきました。
「自分が我慢すればうまくいく」 「疲れているのは母の方」 「私はまだ動けるから」
そう思っているうちに、自分の感情や疲れを抱え込むことが当たり前になっていきました。 そしてある日、洗面所の鏡に映る自分の顔を見たとき、思ったのです。
「この人、誰?」
お化粧っ気もなく、髪もまとめただけ、何も考えずに淡々とこなす日々の中で、自分の“輪郭”のようなものがぼやけてしまったような感覚。
母の名前を一日に何十回も呼びかけるのに、私の名前を誰かが呼ぶ日はない。 私は話しかけてばかりで、誰かに「今日はどうだった?」と聞かれることもない。
相手のために動いているはずなのに、そのたびに自分が透明になっていくような——まるで、存在感が空気のように薄れていくような感覚に陥りました。
この“自分が消えていくような感覚”は、介護においてとても静かで気づきにくい孤独の形だと思います。 だからこそ、それに気づいたときには、しっかりと自分に向き合う時間をとってあげてほしい。
その孤独にどう向き合ったか
私はあるときから、「無理に気丈に振る舞うのはやめよう」と決めました。 「誰かに頼ってもいい」「泣いてもいい」「弱音を吐いてもいい」——それらは決して甘えではなく、人として自然な感情の流れなのだと、自分自身に許可を出すことにしたのです。
その最初の一歩が、ノートに「今日感じたこと」を書き留めることでした。 「イライラした」「疲れた」「それでも母の笑顔を見て少し救われた」——そんな、他人に言えば矛盾しているように見える感情の揺れを、誰にも見せない紙の上にだけ正直に並べていきました。
不思議なことに、ノートに書いた分だけ、心の中が少しずつ整っていくような感覚がありました。 それは、自分の中に“感情の居場所”ができたという実感でもありました。
また、週に一度でも「介護の話をしない相手」と過ごす時間を意識して持つようになったのも、大きな転機でした。 近所の友人とお茶を飲んでドラマの話をするだけで、「私は母の介護だけをしている存在じゃない」と思い出せるのです。
ほんの30分でも、自分の気持ちに立ち返る時間を確保することは、私にとって“自分という人間を再確認する時間”になりました。 それがあることで、再び母のもとへ戻るときの気持ちにも、少しだけ余裕が生まれたように思います。
誰かのために頑張ることと、自分を見失わないこと。 この二つの両立は難しくても、努力してバランスを取ることで「孤独と向き合う力」が養われていくのだと、私は信じています。
「孤独」は、感じてもいい
今でも、孤独を感じない日はほとんどありません。 朝起きてから寝るまで、母と同じ空間にいるのに、どこかでずっと“心の中だけが一人ぼっち”という感覚を抱えている日もあります。 でも、そんな孤独を「間違ったこと」とは思わなくなりました。
むしろ、その孤独は「誰かのために、毎日心を配っている」からこそ生まれる感情なのだと、今では受け止められるようになりました。
自分の心にぽっかりと空いた空白——それに気づける感性を持っていること。 そのこと自体が、私が“今を丁寧に生きている証”でもあるのだと思います。
ひとりきりのように感じる日があっても、心の奥に「自分を分かってあげられる自分」がいるなら、私はもう、完全には孤独ではない。
この記事が、「家族がそばにいるのに、なぜか孤独」という気持ちを抱えた誰かに届いてくれたら、本当にうれしいです。 その感情は、あなたの優しさと誠実さの証拠です。 どうか自分を責めないでください。 その想いに気づけたあなたは、ちゃんと大切なものを抱えている人だと、私は思います。