こんにちは、佐々木真由美と申します。 神奈川県で80代の母と二人三脚の在宅介護をしている、54歳の主婦です。
今回お話ししたいのは、「高齢の親が何でも自分でやりたがる」とき、介護者としてどう対応するか悩んだ私の実体験です。
うちの母は昔から、何事もきちんとこなすことを大切にする人で、家事も身の回りのことも「人に頼らず自分でやるべき」という価値観を強く持っていました。 若い頃はそれが母の魅力であり、誇りでもあったのですが、高齢になり体の衰えが目立つようになってからも、その意識が変わらないことが、私にとってはとても心配の種になっていきました。
特にここ数年は、立ち上がりのふらつきやちょっとした段差につまずきそうになる姿を見かけることが増えてきて、「いつか本当に転んでしまうのでは」と気が気でない日々が続いています。
それでも母は、「大丈夫よ」「私はまだできるから」と笑ってかわしてしまう。 私が手を貸そうとすると、「あんたに頼らなきゃいけないほど私は衰えてない」と言わんばかりに距離を取ろうとする。
たとえば—— ・キッチンで包丁を握って皮むきを始めるとき ・高い戸棚の上に手を伸ばして何かを取ろうとするとき ・夜中にふらっと起きて、ひとりでトイレに行こうとするとき
そのたびに私は内心ひやひやしながら、「ちょっと待って、私がやるから」と声をかけるのですが、母は「いいの、自分でやる」とぴしゃり。
母の気持ちもわかるけれど、私としては“もしも”が怖い——。
そんな緊張感のなかで、私は日々試行錯誤を繰り返してきました。
この記事では、その中でも特に印象に残っている「母の自立心」と「私の心配」の狭間でゆれた経験、そしてどう工夫してそのギャップを埋めていったかを、正直な気持ちで書き留めてみたいと思います。
「やらせてあげたい」と「危ないから止めたい」の狭間で
母の意思を尊重したいという気持ちは、いつも私の中にありました。 「できることは自分でやりたい」という母の想いには、きっと強い自負と長年の生活リズムがあるのだと思います。
でも、もしその“自分でやりたい”という行動が転倒などにつながってしまったら——。 骨折でもすれば、寝たきりになってしまうリスクもある。 そうなれば、母の望む“自立”とは真逆の方向に行ってしまうかもしれない。
この「見守りたい」と「守りたい」の間で揺れる葛藤は、私にとってとても大きなストレスでした。
私が母に近づくだけで、「何でも手出ししないで」と少しピリッとした空気になることもあります。 本当はお互いを思っての言動なのに、結果としてかえって険悪な雰囲気になってしまう——。
「もっと丁寧に言えばよかった」「もう少し我慢すればよかった」と、自分を責めてしまう夜も何度かありました。
それでも私は、少しずつでもこの距離感を変えていきたいと考え、母の気持ちを傷つけずに私の想いを届けられるよう、いろいろな声のかけ方や関わり方を試していきました。
そんな日々の中で見つけた、小さな工夫や気づきを、ここに書き残しておこうと思います。 それが誰かのヒントになれば嬉しいです。
私がやってみてよかった“3つの工夫”
母の「自分でやりたい」という意志と、私の「安全に過ごしてほしい」という願いの間には、どうしても小さな衝突やズレが生まれてしまいます。
そのたびに私は、「どうすれば母の気持ちを尊重しながら、危険を防げるだろうか」と悩み続けてきました。
ただ手を出せばいいわけでもない。 ただ見守ればいいわけでもない。 この“ちょうどよい距離感”を探るのに、私は何度も失敗を繰り返してきました。
そんな中で、少しずつ見つけていったのが、「言い方を変える」「環境を整える」「気づかせる」という3つの工夫でした。 どれも特別な道具や知識が必要なものではなく、日々の関わり方の中で少しずつ実践できるものです。
ここからは、私が実際にやってみて「これは効果があった」と感じた工夫を、順を追ってご紹介していきます。
1. 「任せてほしい」ではなく「一緒にやろうか?」と声をかける
母の“プライド”を傷つけずに手を貸すには、言葉の選び方がとても大切でした。
私が最初によく使ってしまっていたのが「私がやるよ」「任せて」という言葉です。 これは一見やさしさのつもりだったのですが、母にとっては「自分ではもうできないと決めつけられている」ように聞こえるようでした。 実際、「大丈夫、できるから」「そんなに手出ししなくていいわよ」と、ぴしゃりと断られてしまうこともしばしばありました。
そんなとき、ある介護関係の本で「“手伝う”のではなく“共にやる”という姿勢が大切」と書かれているのを読んで、ハッとしたのです。 それからは、「やらせて」ではなく「一緒にやろうか?」という声かけを意識するようになりました。
たとえば料理中に、「火だけ私が見るね」「包丁は洗っとくね」と声をかけると、母は“自分が主体である”という感覚を保てるようで、穏やかな表情を見せてくれるようになりました。
「一緒にやる」という言葉には、不思議と“対等な関係”の空気が生まれます。 それは介護というより、“ふたりで過ごす日常の延長”のような感覚で、母にとっても私にとってもストレスの少ない関わり方になっていきました。
小さな一言で、親子の関係はぐっと変わることがあります。 「やってあげる」ではなく「一緒にやろう」という姿勢は、介護をする側にもされる側にも、やさしい距離感をもたらしてくれると感じています。
2. 危ない動作は“環境側”を変える
母が無理な姿勢を取らずに済むように、家の中の環境を少しずつ見直していきました。 たとえば、よく使う食器や調味料、日用品などはすべて腰の高さから下の棚にまとめて移動。以前は「高い棚の方が取りやすい」と言っていた母も、いざ実際に使いやすくなってみると、「これは楽だわね」と素直に受け入れてくれました。
トイレや寝室の動線には手すりを取り付けました。 最初は「そんなのいらないわよ」と渋っていた母も、夜中にふらつきながらも手すりにつかまって無事に移動できたとき、「これがあると安心ね」と自分から言ってくれるように。
暗い廊下やトイレの入り口にはセンサーライトを設置。 「電気をつけに行くのが面倒」という理由で、真っ暗なまま移動していた母が、ライトが自動でパッとつくことで安心して歩けるようになりました。
こうした環境の工夫は、母の“自立心”を尊重しながらも、転倒のリスクを下げるという両立を実現する大きな鍵になったと思います。
「できないことを制限する」のではなく、「できるようにする工夫」に視点を変える——。 この発想の転換が、母との関係をぎくしゃくさせず、かつ安全性を高める一番の方法でした。
3. 転倒事例のニュースを“他人事”として話題にする
母に対して「危ないからやめて」とストレートに伝えると、たいていは「大丈夫」と一蹴されてしまい、逆に機嫌を損ねてしまうことがよくありました。
注意したい気持ちは山々だけど、押しつけがましくなってしまっては意味がない。 どうすれば自然に「気をつけよう」と思ってもらえるかを考えたときに、私が取り入れたのが“他人の事例を使った会話”でした。
たとえば、テレビの健康番組やニュースで転倒事故の話題が出たときに「昨日テレビでやってたんだけどさ…」と何気なく話し始めたり、「近所の○○さんが転んじゃったらしいよ。夜トイレに行くときだったって」といったエピソードを、あくまで“雑談”として挟むようにしました。
すると、母は「私も気をつけなきゃね」とぽつりとつぶやいたり、自分から「夜はなるべくゆっくり歩くようにするわ」と行動を見直してくれるようになったのです。
本人のプライドを傷つけることなく、自分で「危ない」と気づいてもらうこと。 それが、転倒予防の一番の近道なのだと、私はこの方法を通じて実感しました。
「できることを奪わない。でも、転ばせない」
介護の中で一番むずかしいのは、こういう“微妙なさじ加減”かもしれません。 「手を貸しすぎてもだめ、でも放っておくのも危ない」という、この絶妙なバランスを保つことが、介護者として常に神経を使うポイントでした。
できることを取り上げてしまうのは簡単です。 でもそれは、母にとって長年大切にしてきた“自分の人生を自分で回す”という誇りや、日々の中での小さな達成感を奪うことにもつながります。
だから私は、日々の中で迷いながらも、「本人の意志を尊重すること」と「命を守ること」を天秤にかけながら、毎日ギリギリのバランスを模索しています。 時には、あとで「やっぱり口を出すべきだったかな」と思うこともあるし、逆に「言いすぎたかもしれない」と反省する夜もあります。
でも、その揺らぎの中にこそ、介護する側・される側の“本音”があるのだと、私は思うのです。
親が高齢になってもなお「自分でやりたい」と願う姿は、たくましくもあり、時にはひやりとさせられることもあります。 そんなときこそ、頭ごなしに「やめて」と止めるのではなく、「どうすれば一緒にできるかな?」「どう工夫すれば安全にやってもらえるかな?」と、歩み寄る余地を探すことが、介護者にできる最大のサポートなのだと、私は実感しています。
どんなに小さな一歩でも、そこに“尊重”と“安心”が同時にあるなら、それは立派な介護のかたちだと思います。